父の財産

17そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 18立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。 19もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 20そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。・・・・それから祝宴がはじまった。・・・・ 29兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。 30それだのに・・・・』。 31すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。 32しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。
ルカによる福音書 15:17-32

「ある人に、ふたりのむすこがあった」で始まるこの物語は、主イエスの語られたたとえの中でも、特によく知られたものの一つである。題を「父の財産」としたが、この「財産」というのは、弟息子が父に、「あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください」(12)と言って持ち出した「分け前」(新共同訳)でもなく、また兄息子が父に、「(自分には)子やぎ一匹も下さったことはありません。」と怒って言った、そういう「もの」にからむものだけではない。むしろ、父が兄息子に対して語った「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」という、この言葉の中に本当の「父の財産」があるのではないか。

私たちにはお金がない、足りないといったことで苦しむ現実の方が多い。しかし、この父の言葉は、決して「もの」としての財産だけをさしているのではないということを、まず心にとどめたく思う。

この父は、聖書を読むかぎりでは、大きな農園の持ち主で、かなりの資産家であったことが分かる。息子たちは、農園の生活の中で成長し、ある年齢に達した時、弟の方が父に、「あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください」と申し出た。普通、財産というのは、父親が死んだ時、残された子どもたちに遺産相続というかたちで分けられるものであるが、この父は息子の気持ちが済むようにと思ったのか、その身代を二人に分けてやった。

「それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。」(13)とある。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。これは、彼が父の許にいる時には予想もつかなかった現実の展開である。一度は胸を躍らせて乗り込んだその土地も、すべてを失ってしまった彼にとっては、お祭りの後の夜更けのようなものであったと思う。彼はおそらく、風に吹き飛ばされていく、紙切れも同然の自分の姿をそこに見たのではないか。取りあえず一食たべられればという欲求も満たされない状態だった。

旧約聖書には、親族と別れ、国を出て、自分の全く見知らぬ土地に旅立つアブラハムのことが記されているが、その場合は「わたしが示す地に行きなさい」とあるように、それが神のみ心であった。(創世記12章)。しかし、この弟息子の場合は、父のもとを離れてもっと自由な世界に生きてみたい。いろんなことを経験してみたいということだった。長男ではないという意味で出やすい立場もあったと思うが、しかしそこで彼が得たものは、父からもらった財産を使い果たしてしまうというものであった。恐らくしばらくの間は、その土地での流行の衣服を身につけ、普通の人はめったに行けないような場所で飲み食いし、土地の名士たちと酒を酌み交わして語らったかもしれない。しかし、財産を使い果たしてしまった時、それらはすべて、実にくっきりと別の世界になってしまった。

そこで聖書で言う「本心に立ちかえって」となる。これは、「自分に返る」という意味である。つまり、父の子としての自分の姿に目覚めるということである。『・・・・立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、私は天にたいしても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。「そこで立って、父のところへ出かけた」(18−20a)。「そこで立って」という言葉は、自分ひとりでそう決心して行動を起こしたようにもとれるが、彼を「父のところへ」つき動かすものがあったということでもある。父は、着のみ着のままの姿で帰ってきた息子を、はるか遠くから見届け、走り寄り、盛大なふるまいをもって迎えた。「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」(24)という言葉があるが、父にとっては、息子が帰ってきたという、そのことに勝る喜びはなかった。

ところが兄はどうであったか。彼は弟の帰ってきたことを喜ばなかった。と言うより、弟に対する父の対応とふるまいに腹を立てたのである。「兄はおこって家に入ろうとしなかった」(28)とある。これは、恐らく彼の中で、弟と自分は別だという分離ができていなかったということではないか。勝手に家を出ていった弟に、どこか自分にできないことをしたという感情もあったと思う。この自分には、友達と楽しむために子やぎ一匹もくれたことがなかったのに、

なぜこの「あなたの子」(30)のために肥えた子牛をほふるのか、というのが彼の気持ちだった。「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに」(29)というのは、自分なりの責任感というか義によって、誘惑と戦い、罪を犯さなかったということでもあるが、容易に罪の快楽におぼれたような弟がどうしてこのように扱われてよかろうかという思いである。人は誰でも弟息子の要素を、多少の違いはあっても、内に持っていると思う。

しかし、それはそれとして、私は私の意志で生きているというものがないと、現実の不合理は自分自身を失わせるものともなる。父はこの兄に「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」と語る。

考えてみると、これ程に大きな祝福、豊かさはない。弟はすべてをなくした時に、故郷、つまり父のもとでの豊かさを思い浮かべた。兄の方は父の側にいながら、いることの豊かさを、父から言われなければ分からなかった。父から聞かされても、どれだけ分かったのか分からない。

兄も弟もこのたとえの中では、父のもとにいることの豊かさが分かっていなかったという意味では同じである。このことは、ある意味で、神の愛、キリスト(きりすと)の愛ということを、聖書を通して学んでいても、それが現実の生活の中で、身近な感謝となってこない私たちの姿と変わらないのではないか。主のもの、子とされていることの豊かさ、本当の意味での「父の財産」を受けていく一人一人となっていくことが、父なる神の私たちへの望みであり、願いである。

み心のうちに主とともに働くことが許されていることの豊かさ、恵みの大きさをもっと覚えていきたく思う。イエスは言われた「わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である。」(ヨハネ9:4−5)

1998年3月1日(日)主日礼拝宣教要旨

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