神の忍耐

1ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。 2そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。 3あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。 4また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの18人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。 5あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。 6それから、このたとえを語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えておいたので、実を捜しにきたが見つからなかった。 7そこで園丁に言った、『わたしは3年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。 8すると園丁は答えて言った、「ご主人さま、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。 9それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、
ルカによる福音書 13:1-9

水曜日の夜の聖書の学びは、このところ、次の日曜日の教会学校のテキストを用いて行っているが、先日の学びの中では、「実を結ばないいちじくの木」のたとえの「実」とは何か、「実を結ぶ」とはどういうことか、ということが、一つの大きな問いかけとして残った。このたとえは、マタイ(21:18−22)、マルコ(11:12−14、20−25)では、神のきびしさをあらわすさばきの言葉として語られているのに対し、ここでは、園の持ち主に対する園丁の、懸命の執り成しによって、猶予が与えられている。

ところで、「実」と「木」とは、切っても切れない関係をあらわすたとえとして、聖書に記されている。ルカ福音書6章には、「悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実でわかる。」(43−44a)とあり、マタイ福音書7章にも、「にせ預言者を警戒せよ。」という言葉の後に、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。」(17−18)とある。しかしこれらは、主イエスが語られた言葉であって、その良し、悪しについて、私たちが語ることは出来ない。むしろ、主は私たちに、ただ主御自身から聴くことを求めておられる。今日のテキストの前半は、ともすると、私たちの陥りがちな誤ちを示していると言える。

「ちょうどその時」とあるのは、前の章でまさに主が人々に、神の支配とさばきに対する気づきを求めて語っておられたその時、ということである。ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜられたことを、イエスに知らせたとある。これは、ガリラヤ人たちが、神殿で礼拝をささげていた時に、ピラトの兵卒たちが来て、彼らを殺したということである。理由は記されていないが、ローマの支配に反抗して、騒ぎを起こしたということではないか。

使徒行伝5章にも、ローマが行った人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起こしたことが記されている。(37)いわゆる「熱心党」の起こりであるが、当時はこうした事件が、あちこちで起こっていたようである。礼拝という、誰もが安心しておれるはずの、全くの無防備のところを襲われたわけであるが、ここでの「災難」とはそういうことである。また、シロアムの塔が倒れて、16人が死んだことが語られている。こうした予期しない事故や災害で、いのちを落とすということは今でもある。

伝道の書に「時と災難はすべての人に臨む。人はその時を知らない。魚がわざわいの網にかかり、鳥がわなにかかるように、人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む時、それにかかるのである。」(9:11−12)とあるが、人はこうした思いがけない事故や災害が起こると、その背後に何か特別な力の働き、神のさばきのようなものを見ようとする。

主イエスは、ガリラヤ人の災難を知らせにきた彼らに、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。」と語られ、5節でも同じ言葉を繰り返しておられる。主はむしろ人びとが、時のしるしに気づき、悔い改めて、立ち返ることを求めておられるのである。

3年も実を結ばないいちじくの木のたとえで、強く印象に残るのは、その木を切り倒してしまえという、園の持ち主に対して園丁が「ことしも、そのままにして置いて下さい。そのまわりを掘って、肥料をやって見ますから。」と、願い出るところであるか、「実を結ばない」と言われる「実」、結ぶことを期待されている「実」とは、一体何をさしているのか。先ほど引用したマタイ7章の言葉の後に、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国に入るのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、入るのである。」(21)とある。

私たちは、自分で「実」を判断しようとすると、例えば、あの人は信仰的には立派なのに家族はどうだとかいうことになると、分からなくなる。または、間違ってくる。私たちには、隠されていること、分からないことがあるということを知ることは、大事なことである。この世の中では、自分の判断で決めていかなくてはならないことがたくさんあるが、しかし、なおそこに、神の判断があるということを大切な余地、余白として残しておく謙遜さが、私たちには必要である。自分が木であることを意識して、今年はどれだけの実をつけられるかとか、励んだけれども駄目だったというようなことではない。

大事なことは、私たち自身が、まず主の前にへりくだることである。「実」については、ガラテヤ人への手紙5章に、「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」とあるように、それらは御霊が結ぶ実であって、自分でつけたり数えたりするものではない。大事なことは、日々、主の前に自らを低くして、自分を主のものとして整えていくことである。

中学時代にここでバプテスマを受け、今は他県に住んでいる婦人の方がいるが、彼女のお母さんがその時、教会に来られて、いつまで続くか、果たして自分の歩みに責任が持てるか」と言われたことを思い出すが、その彼女から最近お手紙を頂いた。「名古屋教会でバプテスマを受けて35年たちました。主の恵みが共にあったことを思います。私がとにかく聖書に聴いてきたことで、まわりが(自分から願うのでなく)変えられてきたことを思います。不思議ですね。」とあった。やはり、私たちは、自分の最善を尽くすのであって、いつも最後のところは主にゆだねて、自分の心で物事を決めつけたり、裁いたりすることは、控えなくてはいけないということを思った。

しかし、自分自身のことが回りに影響を及ぼすということがあるから、やはり、主のものとして自分を吟味、検討するということは必要である。私たちは、自分が人生の旅人であること、また、歩むべき道を示されたものとして、日々を過ごしていくことが大切である。私たちには、いつも何か自分だけが他に対して、忍耐しているような意識があるが、自分も忍耐されているものだということを知らなくてはいけない。

しかし、それ以前に、神が私たちを忍耐して下さっていることを覚えたい。私たちそれぞれは、その神の忍耐に支えられて、生きることを許されているのである。神は、忍耐をもって、今日も私たちそれぞれに、立ち返って生きることを求めていて下さるのである。

スチュアードシップというのは、何か特別なものを身につけることではない。それは主のものとして、何を捨て、何を大切にしていくかということである。そういう意味では、主のものとして身軽くされていくこと、いかに主のものとして生きていくかということである。これは私たちにとっての生涯をかけてのあかしであり、学びである。

1998年2月8日(日)主日礼拝宣教要旨

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