「マリヤの問い」という題は、御使ガブリエルがマリヤに告げた「受胎告知」に対して彼女が答えた、「どうして、そんな事が・・・・」からとったものである。意味は少し違うが、この前のところで、祭司ザカリヤが、御使から、「あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。彼は、・・・・」(13−17)と告げられたことに対して「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と答えている。
「どうして、そんな事が、・・・・」という問いは、今の私たちにも同じようにある。もし、人の知恵で神のなさることを計ろうとしたら、やはり、「どうして、そんな事が」ということになる。私たちには、ある意味で、信じること以外に分かる道はないが、しかし、マリヤの「受胎告知」が、全くの単なる物語にすぎないということで否定されるということはない。むしろ、信仰の一つの奥義として、この箇所は全世界の教会で、毎年読まれ続けてきている。
御使がマリヤのところにきて、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」と告げた時、彼女は、「この言葉にひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた」(29)とある。マリヤについて聖書は、ほとんど何も記していない。「主があなたと共におられます」というひと言だけである。ただ「主が共におられる」ということが、現実にどういう意味をもつのか、彼女には分からなかった。祝福を受けて、本当には(私たちから言えば)喜びと期待が感じられるはずのところで、とまどいと胸騒ぎがおこるということは、主の御用にこの自分が関わるということに、現実的に、気持ちの上で距離があるということではないか。
最近、「ブロンクス」という題名の映画をビデオで観た。これは、下町(その名がブロンクス)に住むカルジェロという男の子の育っていく物語である。彼のアパートの近くに、酒場を営むソニーというボスがいて、町の人々には恐れられていたが、カルジェロには憧れの存在であった。そのソニーがある時、一寸したいさかいで人を殺してしまう。たまたま現場を目撃したカルジェロは、捕らえられた何人もの大人たちの前で、犯人の顔を言い当てることになるが、ソニーの前に来て、「撃ったのはこの男か」と聞かれた時、彼は「違う」と言ってしまう。単に後の仕返しがこわくてそう言ったふうでもない。ただ、カトリック教会で、小さな部屋に入って神父に告白する場面が出てくる。「自分は殺人の現場を見た」と言うと、神父はびっくりした顔で、「何を言ったのか、もう一度」と問い返す。何が「不利な証言はしなくてもいいと憲法にある」と言うと、神父が「その前だ、十戒には何と書いてあるか」と問う。
そこで彼は「汝、殺すなかれ」と答えるのであるが、神父が「恐れるべきものを恐れなければいけない」と言うと、「神の国ではそうだけど、この世では違います」と答える。7才か9才の子供がそのような答え方をするのに、一種の驚きを感じた。少年の父はバスの運転手で、つつましい生活をしながら、教会の前に来ると十字架をきるような人である。彼は青年になっていく息子の、ソニーに対する強い関心に不安を覚え、「神の前にひけめを感じない生活が大事だ」と言うが、息子は「車も持てないくせに何を言うんだ」と言って反抗する。そうした中で、カルジェロは、そのような父を尊敬もしていたが、ボスのソニーも尊敬していた。彼の人生の指針となったのは、力と富をもったソニーの「私をまねしてはいけない。これは私の人生だ。お前にはお前の人生がある。」と言った言葉である。
彼がどのように自分の人生を見つけていったかということは、父親との仲直り以外に分からないが、私たちの生活は、この世の力と、神からの力の迫りの中で、どちらにも迫られている。それが、私たちの現実の姿である。マリヤが、「どうして、そんな事があり得ましょうか」と言った時に、御使は、子供の産まれるはずもないエリサベツが、子供を身ごもったことを伝えて、「神には、なんでもできないことはありません」と語っている。これは、神の側においてということである。
「マリヤの問い」というのは、ある意味でいつも私たちの中にある。それは、私たちが人として、この世に暮らしているからである。御使がマリヤに告げた言葉の中に、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう」(35a)とあるが、この世にあって神の不思議を知ると、神が私たちを子として取り扱ってくださる愛を感じとって、その愛の中に生きようとする力に充たされていくのではないか。またマリヤは、御使の「神には、なんでもできないことはありません」(37)というそのひと言で、その言葉だけで納得したのではない。やはり、彼女の信仰の歴史というか、歩みの中で、ガブリエルの言葉を受けとめて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と答えたのである。
マリヤは自分に御心を成してくださいという生き方をした訳であるが、私たちも、この世の力に引きずり回されるのではなくて、神には何でも出来ないことはない、神はその御心において全能の方であるという信頼において、示された奥義によって道を歩んでいきたく思う。マタイによる福音書の2章の始めに、東方の博士たちが、幼子イエスを訪ねる場面が記されている。彼らは、星に導かれて歩いたから、イエスのもとに辿(たど)り着くことが出来たように、私たちもイエス・キリストを求めていくことにおいて、聖書が語っているイエス・キリストをより知っていくことにおいて、神の奥義、神の愛、神の導きを、神と自分とのこととして理解していくことが出来るのである。
よく習いごとの世界で、奥が深いとか、それを極めるにはいくつもの段階があるということを言われるが、聖書の奥義というのは、神の愛を知ることである。それは誰でも心を開けば受けられるように、既に一人一人に臨んでいる。神の愛は私たちの状態や条件によって左右されることはない。まさに、一人一人に注がれている。問題は、私たちがそれを、どう受けていくかである。
繰り返すが、「マリヤの問い」は、現在も引き続いている私たちの問いでもある。信じていくことがどういうことになるのか。しかし、信じて、従っていく以外に、その結果を見ることは出来ない。マリヤは、主の言葉に信頼することにおいて、イエスをこの世に送るという神のわざを担ったわけであるが、彼女は自分の納得や確信に立ってそれを受けたのではない。確かさを、神の側に置いて応えていったということである。問いの答えは、むしろ信頼していく中で与えられてくることのように思う。私たち自身も、「どうして、そんな事が」というマリヤの素朴な問いを、同じように持っている存在として、しかし、あなたのみ心のうちに生きる者としてくださいという、そのような姿勢をここから学んでいきたい。
使徒行伝17章に、パウロがギリシャのアテネで人びとに、イエス・キリストのことを語った時、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」(32)と言ったことが記されている。それが現実である。そして、そのような「いずれまた聞くことにする」「後で考えることにしよう」という現実は、私たち自身の心の中にもある。しかし、主の語りに対する「マリヤの問い」は、後で考えられることでもないし、その答えは、信頼して、歩み続けていくことの中で与えられてくるものである。どうか、主が信頼する心を私たちに与えてくださるように。