今日は、8番目の士師として登場する、ギレアデ出身のエフタのことを学ぶ。彼は、父ギレアデと遊女を母として生まれた。聖書には、「その妻の子供たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して彼に言った、『あなたはほかの女の産んだ子だから、わたしたちの父の家を継ぐことはできません』」(2)とある。誰の場合でもそうであるが、人は皆、自分から親を選んで生まれてくるわけではなく、生まれた家庭や環境によって人生は異なってくる。
エフタはひとり、父の家を離れて、ギレアデから東に25キロ程離れたトブの町に住んだ。ここから言えば、犬山か豊田辺りの間隔だろうか。「やくざ者がエフタのもとに集まってきて、彼と一緒に出かけて略奪を事としていた」(3) とある。「やくざ」というのは、もともと「三枚」というばくちのことで、八、九、三の目が出ると負けになったことから、用をなさない、まっとうでないものの形容となった。エフタには、そんな人たちが寄りつきたくなるような力の強さというか、面倒みの良さ、統率力があったのだろう。
それだけでなく、いざ戦いとなった時に、ギレアデの長老たちが彼に頼んで、自分たちの指導者になってもらおうと思ったということは、彼にそれなりの器量が備わっていたということだろう。一度は追い出された身であっても、部族の一人として、彼は長老たちの願いを引き受けることになった。彼はまず、戦いをいどんできたアンモン人に、何故戦おうとするのかと、使いを送って和平の道をさぐっている。しかし、それが受けいれられずにいよいよ戦いに臨むことになるが、その時、エフタは主に誓願を立てて、「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」(31)と言った。
人をいけにえとしてささげることは、モーセの律法に厳しく禁じられた異教の風習であり(申命記12:29〜31、18:9〜10)、それが、どうしてと思うが、私たちはこのエフタの誓いの言葉の中に、決意だけではなく、彼の心の底にひそんでいる奢(おご)りの影をみることが出来る。彼は大勢の軍隊を率いて戦える力を持った人だった。そのことが、彼を気付かずして、主に、願うかたちをとってはいるが、もしあなたがこうしてくださるなら、私はこうしますという、取引のような言葉になった。
その後、どういうことになったかということは、34節からのところに記されている。戦いに勝って帰ったエフタを、戸口で最初に迎えたのは、彼のひとり娘だった。エフタは衣を裂き、「ああ娘よ、あなたは全くわたしを打ちのめした。・・・・」と言って嘆(なげ)く。彼にとっては、思いがけない事態が起こったわけであるが、考えてみると、戸口から誰が最初に出てくるのかは、分からないことである。もし他の者であったら、彼はどうだっただろうか。自分の気負いが家族を巻き込んだり、周りの者を傷つけたりすることがよくある。この世的には、どうしても自分の判断や才覚で動いていくことになるが、しかし、ここで私たちは、聖書に聴くこと、向かうことが求められる。
ルカによる福音書17章に、主イエスの語られた「主人と僕」のたとえが記されている。「僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」(10)
今はPRの時代、自分のやろうとすること、やったことを、むしろはっきり言うことが求められる時代である。始めてここを読む人は、主イエスの言われる「僕」であるということは、何とつらいことか、またこの「主人」は何と横暴な人だろうかという印象を持たれると思うが、主がここで言おうとしておられることは、決して逆にすることの出来ない神と私たちの関係ということであり、私たちのすることは、全て神との関係の中に置かれているということである。「わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」と言える謙虚さと、主はすべてを御存じだという信頼の心が、私たちには必要である。
エフタのことに戻るが、彼は、イスラエルの運命を担っているのはこの自分であり、神は私たちの神ではないか、という気持ちをもっていた。彼自身は決して高ぶっているつもりはなかったけれども、こうして聖書を読んでいる私たちは、彼の気負い、高ぶりを感じることが出来る。それはまた同様に、私たちの中にも、自分では気付かずしてあるかも知れないということを省みる必要がある。
しばらく前に、NHKのTV番組で「ふたりっ子」という朝の連続ドラマが放映された。その中で、中村賀葎雄の演じる銀次という放浪の将棋指しが言うせりふに、「頼るのは自分だけだ。自分しかいない」というのがあった。この言葉は、誰にでも分かりやすいものである。何でも、結局自分ということになる。信仰を貫くか、はずれるかという場合でも、全部自分である。何をどうしていくかという時でも、最終責任は自分である。
ただ、そこに言葉の罠というか、「自分だけ」という場合の自分は、一体何者なのかという問いが抜けている。自分自身に収支決算が出来て、きれいなかたちで死んでいける人は、おそらくいないのではないか。
かって著名な政治家がいた。大変大きな力をふるった時代もあったが、彼自身は結局、壊れものとしての人生を終わった。また、彼がやったことも再評価の対象になっている。私たちは常に間違いを犯しやすいものであり、自分の判断だけが正しいものではないということだけは、いつも心に留めておかなくてはいけない。「み心ならば」という、一歩控えた生き方は大切である。
エフタの生涯は、彼の生きていた時期にイスラエルを敵から救ったという功績と共に、彼の気負いから出た誓いの言葉から、ひとり娘を失くすという悲劇も併せもった。このことは、古くから歌劇や文学の題材としても取り上げられているということであるが、この聖書の箇所から、私たちはいつも、神の前に、自分を何者でもない者として、常に主に助けを求める心、謙虚さを身につけていきたく思う。