「さあ、立ちあがりなさい」。これは、イスラエルの士師の一人デボラが、戦いに臨んでバラクに発した言葉である。結論から言えば、これは単なる激励ではない。主の支えと護りが、確かなこととして既に約束されているということの宣言である。イスラエルの民は、ヨシュアによって約束の地カナンに定住することになったが、彼の死後、全体を統率する指導者のないまま何度も、神から離れては先住民や他部族の支配下にあって苦しんだ。
士師というのは、そうした中で、助けを求める民の叫びに答えて、神に立てられた指導者たちのことである。士師記というのは、その時々に立てられた士師たちの働きを中心に、イスラエルの民の歴史を書き記したものである。士師たちの活躍した、つまり、イスラエルに王制がしかれるまでの二百数拾年を、イスラエルの歴史の中で士師時代と言う。彼らは民をさばくだけでなく、外敵から民を護る働きをもした。今風に言うと、裁判官であると同時に、政治的・軍事的な力を持った指導者ということになる。かと言って、その一人ひとりは、私たちが想像するような特別な人たちではない。ここに出てくる四人目の士師は、「女預言者デボラ」とあるように、女性であり家庭の主婦である。
4章の初めに、「エホデが死んだ後、イスラエルの人々がまた主の前に悪を行ったので、主は、ハゾルで世を治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売りわたされた。」(1〜2a)と記されている。読んで分かるように、士師の時代は、このことの繰り返しの歴史である。デボラは、イスラエルの民を20年に亘るカナンの軍政から解放するために、もう一人の士師バラクに主の言葉を告げて、カナンの軍隊と戦う決意をうながす。
バラクに告げられた言葉は、「ナフタリの部族とゼブルンの部族から一万人を率い、行って、タボル山に陣をしけ。わたしはヤビンの軍勢の長シセラとその戦車と軍隊とをキション川に引き寄せて、あなたに出あわせ、彼をあなたの手にわたすであろう」ということだった。シセラの率いるカナンの軍隊は「鉄の戦車900両」(3)という強力な部隊を擁していたが、この時のイスラエルには、およそ戦いに要する装備は何もなかった。あるのはただ、デボラを通して告げられた主の約束の言葉だけである。問題は、その言葉に信頼して立つことが出来るかどうかであった。
イザヤ書7章の初めに、ユダヤの王アハズに告げよと、預言者ヨシュアに語られた主の言葉が記されている。その一節、「もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない」(9b)。原文では「信じる」という言葉にアーマン(アーメン)が用いられている。それは神の言葉をまこと、確かとして信頼するということであるが、次の「立つ」という言葉にもアーマンという語が用いられている。「もしあなたがたが私をアーマンしなければ、あなたがたはアーマンされない」ということである。
新共同訳では、「信じなければ、あなたがたは確かにされない」とあり、最近、岩波書店から出た旧約聖書(Z)「イザヤ書」の訳では、「あなたたちが信頼しないなら、まことにあなたたちも信頼されない」となっている。信頼しなければ、信頼することによって得られる確かさをもつことは出来ないという意味である。私たちの知るアーメンは、旧約聖書の言葉(ヘブル語)をそのまま受け継いだもので、「真実」「まこと」「確かである」ことを意味する。私たちはそれを大抵の場合、祈りの最後に置くが、神の私たち一人ひとりに対する御思いと関わりが既に先にあることを思えば、アーメンはこちらからと言うより、むしろ先から来るもの、受けるもの、頂くものである。
私たちにとっていつも問われていることは、主の言葉に信頼して立つことが出来るか。置かれた現実の場、状況の中で、立ってことに当たれるかどうか、ということである。私たちの間では、言葉で交わす約束というのは、当てにならないという状況・事実がある。聖書では、主の言葉は出来事と結びついて具体的である。
旧約には、主の言葉として「わたしはかつてあなたがたをエジプトから導き出したではないか」ということが、いつも繰り返し語られているが、時間がたち、状況が変わると、救いの根本にかかわる出来事が、現実の生活の中であまり力をもたないというか、「今」の現実から神を見るようになる。これは、私たちにも言えることで、主の十字架と復活というその出来事、神の歴史から今の自分を見るのでなく、今の自分の現実から神を見るようになる。従って、自分の生活に差し障りのない、自分に快適な神を持ち込むことになる。
ここの「さあ、立ちあがりなさい」の「立ちあがる」は、身を起す、起き上る、堅く立つ、固める、決める、備えるということで、「立ちあがる」「立つ」という動作は、今までとっていた姿勢と異なる、新しい態勢に入ることを意味する。別な言い方をすると、今までの迷いやおっくうさから切れて、前に進むということである。
ヨハネ福音書5章に、エルサレムのベテスダの池のそばで38年もの間、体の癒しを求めて、水の動くのを待つ一人のひとのことが記されている。イエス・キリストがその男を見て、近づかれ、「なおりたいのか」と言われると、彼は、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです。」と答えた。彼は誰かが自分のためにしてくれることを、何となく待っているだけで、自分から特に求めることはしなかった様である。ある意味では、成り行きまかせだったように思う。私たちの中にもそういうものがないだろうか。
先程、「もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない」というイザヤ7章の言葉を引用したが、立つためには、先ず主の言葉に信頼を置くことである。そこから先ず、平安と力を得ることである。バラクは、デボラの「主がこう命じられる」という言葉に対して、「あなたがもし一緒に行ってくだされば、わたしは行きます。しかし、一緒に行ってくださらないならば、行きません」と答えている。
バラクのこの迷いと弱気と不安は、カナンの軍隊の強さ大きさを意識するところから出ているように思われる。イスラエル軍はタボル山を陣をしき、シセラの率いるカナン軍はキション川に集結した。いよいよ決戦の場面である。デボラはバラクに、「さあ、立ちあがりなさい。きょうは主がシセラをあなたの手にわたされる日です。主はあなたに先立って出られるではありませんか」と、再度、決意を促す。
「そこでバラクは一万人を従えてタボル山から下った」(14)。それは、なだれのような光景だったと思われるが、5章の「もろもろの星は天より戦い、その軌道をはなれてシセラと戦った。キションの川は彼らを押し流した、激しく流れる川、キションの川。わが魂よ、勇ましく進め。」という記事と併せ考えると、大雨か何かでキション川が氾濫し、ぬかるみに足をとられて、鉄の戦車は役に立たなかったようである。
結局イスラエルの前にカナンの軍隊は敗れ、ひとり逃れたシセラも女の手によって死んだ。彼が戦いに負けたのは、鉄の戦車に過信し、油断していたということでもあり、シセラの母も侍女たちも、彼が勝つことを疑わなかったということは、人が人の力やいのちがいつまでも続くような錯覚をしているのと同じことではないか。
もし、主の者として、自分がこういうことをしたいとか、しようと思ったら、やはり先ず主の言葉に自らを置いて、迷う心や、おっくうな思いと戦うというか、決別して立ち上がることではないか。そして、それぞれあなたによって私は歩くことが出来ましたと、主に告白出来るような生き方をしたいと思う。