力と愛と慎みとの霊

6こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。 7というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。 8だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力のにささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。 9神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、 10そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。
テモテへの第二の手紙 1:6-10

第32回全国壮年大会が8月28日(木)から30日(土)にかけて天城山荘で開かれ、私は実行委員会からの要請で、西南大学神学部の青野先生と、(私は奨学金委員会の立場から)「神学校について語る」という発題をした。数年前から、これも大会実行委員会からの要請で、神学部学生の報告と証しを大会でして頂くことになっていて、人選は神学部の先生方にお願いしているが、今回は、思いがけず、浅野神学生がその代表に選ばれ、行き帰りの道中や、山荘での二泊三日を共にすることが出来、感謝している。参加を予定していた布山兄が仕事の関係で、キャンセルを余儀なくされたことは残念だったが、森兄が茨木の自宅から初参加され、ご本人も参加出来たことをとても喜んでおられた。日曜日をすぐ後に控えていることもあって、牧師の参加は少なかったが、高校生の時にこの教会でバプテスマを受けた二見真義兄(現在、浦和教会メンバー)や何人もの人たちと久しぶりの再会を喜び、また新しい出会いを頂いた。私たちは生きている間に、いろんな人に出会うが、聖書からもいろんな人に出会う。

ここに出てくるテモテは、偉大な伝道者パウロから「信仰によるわたしの真実な子テモテ」(Tテモテ1:2)と呼びかけられ、また、3節からのところに、「わたしは、日夜、祈の中で、絶えずあなたのことを思い出しては、きよい良心をもって先祖以来つかえている神に感謝している」と、その愛を伝えられている最も若い弟子の一人である。

パウロはこのテモテに、エペソの教会を任せるわけであるが、それがテモテへの第一の手紙、第二の手紙となった。教会学校のテキストでは、7節の「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊なのである。」という言葉が、ポイントとして取り上げられている。これはパウロが、神の賜物について語っているところであるが、彼は何故わざわざ、「臆する霊ではなく」と言っているのか。

これは当時の時代状況もあるが、「あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない」(8)とあるように、福音を語ることに臆する心が人を支配するということである。「臆する」とは、「気おくれする」こと(三省堂、新明解国語辞典)である。人の目か何かに威圧されて、やろうとする気持ちがくじけること、しりごみすること、自分の中に引き籠もることである。

新改訳も、新共同訳も「臆する霊ではなく」を「おくびょうの霊ではなく」と訳している。これは、テモテの中に、パウロから見て、気の弱いところがあったか、あるいは、若いとか、経験が浅いということで、彼自身の中に自分の勤めを重荷と感じる気持ちがあったということであろう。(Tテモテ4:12、Tコリント16:10−11)。そのテモテに、パウロは「神がわたしたちに下さったのは、力と愛と慎みの霊」であることを語る。

ここで語られている「力」とは、私たちにはない、神から頂く力のことである。又パウロは、エペソ1:19で「神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」と語っている。使徒行伝1:8には「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。」と、聖霊によって働く力のことが記されている。

また、ここで語られている「愛」も、私たちの中に始めから備わっているものではない。ガラテヤ書5章に「御霊の実は、愛、喜び、平和・・・・」(22)とあり、「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。」(25)という言葉があるように、この「愛」は、御霊の働き、実として与えられるものである。

教会の北側の大通りを、夜中の一時頃、突然のようにバイクの集団が、けたたましい音を立てて通り過ぎ、少し遅れてそれを追っかけるパトカーのサイレンが鳴り響く。そんなことが夏も冬も繰り返されているが、特に真冬のバイクの音は、彼らが生きていく、唯一の力のようなものを感じさせる。時間・空間を我が物顔に振る舞う若者たちに、どうしょうもない腹立たしさを覚えるのも事実であるが、彼らをそのような行動に駆り立てている、彼らの内にあるものは一体何かを考えたりする。そのようなことで言えば、ではこの私を日々支え、つき動かしている力、その中心にあるもの、なっているものは何かということを、立ち止まって考えてみる必要がある。

パウロはここで、私たちが生活の土台、気持ちの中心に据えるべきものとして、「神が私たちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊である」ことを語っている。「慎む」とは、「調子に乗ってあやまちを犯すことのないように気をつける」「度をわきまえて、控えめにする」(新明解国語辞典)ことを言うが、ここでは、ただ出方を控えると言うよりも、むしろ自分を越えたものを知る、自分を知るという意味で用いられている。神はその力において、愛において、私たち一人ひとりを支えていて下さるが、それによって奢り高ぶらないで、自分の在るべき場所をわきまえ知っているということである。

これらはすべて、イエス・キリストにおいて神を知ることにおいて、与えられ、分からされてくるものである。6節に「わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい」とある。それは、どのようなよいものも、現実の中では、山あり谷ありの状態が繰り返されるものであることを示している。私たちは、信仰という神から頂いた賜物(それは関係と言うことであるが)を中心に、そこからずれないように、はずれないようにしていくことが大切ではないか。

以前NHKで、「日本一短い手紙」というのが公開されてしばらくたつが、自分へのメッセージとか、自分からのメッセージを愛する身近かな人に、あるいは知らない誰かに伝える必要を心に覚えたいと思う。それはまた、ともすれば自分を支配する「臆する霊」から自由にされて、新しいもう一歩を踏み出していく、あるいは自分自身を燃えたたせていく力となっていくのではないか。

1997年8月31日(日)主日礼拝宣教要旨

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