第一のすすめ

1そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。 2それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。 3これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。 4神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
テモテへの第一の手紙 2:1-4

この手紙は、伝道者パウロがエペソの教会で苦闘している弟子のテモテの働きを助ける目的で書いたものである。今、読んで頂いた2:1−4は「まず第一に勧める」とあるように、キリスト者の生活の基本を言い表した言葉である。話はさておいて、時々、教会までの道順を教えてほしいという電話が入る。

「地下鉄の11番出口を出ると、今池交差点で横断歩道をガスビルの方に渡り、右に三筋目左に入ったところ、角が『ビデオの安売王』(今はない)」と説明することにしているが、その角の店に最近「たまごっち10個限定入荷」の張り紙が出るようになった。こういう張り紙が出るということは、やはりそれを求める人が今でもいるということだろう。製造が追いつかないとか、定価の4,5倍もすると言われて、あんなに大騒ぎをしたものを是非見てみたい、手にしてみたいと思う人がいるということだろう。ひよこを育てるには、まず飼育に適した環境を保たねばならない。生きものだから排泄もするし、臭気もする。

しかし、たまごっちの場合はそういうものがない。それが異常に受けるのは、ひよこを育てる楽しみというか、自分がひよこに関わっていくそのプロセスが、ゲーム感覚で、最も簡単なかたちに凝縮されているからだろう。一種の疑似体験である。ゲームセンターには、簡単にレーサーやボクサーになれる機械が沢山ある。カラオケの場合でも同じことが言える。朝日新聞の広報室で調べてもらったら、1972年ころ、神戸市のスナックで始まったというから、丁度25年たったことになる。

依然として、しかもかなり広い層にわたって人気があるのは、やはり自分の声が耳に心地よく聞こえる。いかにもうまく歌えているように聞こえるということ、機械の操作によるものではあるが、マイクを握ればいっぱしの歌手になったような気になれるということだろう。今はパソコン通信やインターネットで、居ながらにして、ショッピングや旅行を楽しむことも出来る。そういう意味では、私たちは事実に直接、裸で向き合うという体験が少なくなってきている。

今日の箇所は、一つ一つを自分自身のこととして、検討、吟味することを私たちに求めている。私たちの回りには、科学や技術の素晴らしさを思わせる情報やものがあふれている。確かにものを生み出し、作ることにおいて、人間は素晴らしい生きものではあるが、要するに生きものである。創られた、しかも限られたいのちに生きるものであるということを、はっきりと受けとめることが大切である。パウロは、牧会で苦闘する若い伝道者テモテに、まず第一のこととして、「すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。」と記している。四つの言葉が用いられているが、これは祈りへの勧めである。

祈ることが第一の勧めとされていることに、私は新鮮な驚きを覚える。確かに祈るという行為は、当面する課題を、自らと共に主の前に置くということである。まず、「願い」とは、欠乏感からくる求め、必要に迫られてする求めのことである。全く「願い」をもたない人がいるだろうか。どんなに恵まれた環境に住んで、幸せな人間関係の中にいると思われる人にも「願い」というのはある。人は、自分が最良の状態にある時でも、どこかにいつも、もの足りなさというかはかなさを感じることがあるというのは、限られたいのちを生きているというところからきているように思う。

バークレーという人は、この箇所の註解で、「神だけが満たしうるような欠乏がある。神だけにしかもって行けない欠乏がある。神だけしか与えることのできない力がある。(後略)」と言っている。(聖書注解シリーズ12、P76)。私たちは、自分に空しさや淋しさを感じた時、本当に自分に向きあうだろうか。私たちはむしろ、その空しさを埋めようとして、あるいは、まぎらわすためにいろんなものを求める。そして現代は、あまりにも安易にそれを充たすものが多い。しかし、私たちは神を知らされたものとして、まず、「祈り」の場に自分を置くという原則に立ち返ることが必要ではないか。

イエス・キリストは、ご自身の全存在をかけて、神と私たちをつなぐとりなしてとなって下さっているのである。「感謝」については、日常小さいことから大きいことまでいろいろと私たちは経験するが、神との関係に置かれているということは、何にも勝る感謝の土台、恵みであることを覚えてほしい。私たちは聖書において、自らの神との関係を分からされるが、旧・新約聖書は、人の弱さ、愚かさと共に、人のあるべき姿、生き方を丁寧に教えている。2節に、「それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。」とある。もしこれだけを読んだとしたら、人は別に「安らかで静かな一生」を送らなくてもいいということにもなり、「真に信心深く、また謹厳に過ごす」という言葉にも、ほとんど魅力を感じないのではないか。しかしここは単に個人的なことを言っているのではない。

「信心」は原意から言うとよく敬うこと、敬虔であることを意味し、信仰とは違ったニュアンスで神に対して用いられ、また人に対しても用いられる。「謹厳」も言葉としてはむつかしい印象を受けるが、神のことを思い、人のことを思い、自分を大切にしていくということが、その人の人間としての品性をつくっていくという意味で用いられている。「安らかで静かな一生」、これは嵐の中の船にもいかりをおろして休息する時が備えられているということで、人生の波浪にもてあそばれないという意味で受けとめて欲しい。

先にも述べたが、聖書は常に人としての在るべき基本の姿を指し示している。ただ、それに対して、「聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。」(マタイ13:14他)と言われるようなことがないように努めて欲しい。「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。」(4)という言葉から「すべての人が救われる」ということは、やはり一人ひとりが神に心を向けていくことであると思う。心を向けていくことによって真理が見えてくる。日曜日だけでなく、日常の中で神を礼拝する、主と交わる時をもつということをキリスト者の条件として心に留めて欲しい。

私たちはあまりにも情報過多の中にいて、聞かされることに馴れている。やはり地味な作業であるが、運動選手がトレーニングを欠かさないように、聖書の中から自分に与えられる言葉を読みとっていく特別な天引きの時間を、是非毎日の中でとってほしい。先週の宣教の中で、私たちに大切なことは、こうありたいと思うことと、現実との距離をどう短くしていくかということだと言った。そのことについても引き続き考えてみて欲しい。

1997年8月10日(日)主日礼拝宣教要旨

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