民は六日の間ラッパの音を聞いた

1さてエリコは、イスラエルの人々のゆえに、かたく閉ざして、出入りするものがなかった。 2主はヨシュアに言われた、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている。 3あなたがた、いくさびとはみな、町を巡って、町の周囲を一度回らなければならない。六日の間そのようにしなければならない。 4七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて、箱に先立たなければならない。そして、七日目には七度町を巡り、祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない。 5そして祭司たちが雄羊の角を長く吹き鳴らし、そのラッパの音が、あなたがたに聞える時、民はみな大声に呼ばわり、叫ばなければならない。そうすれば、町の周囲の石がきは、くずれ落ち、民はみなただちに進んで、攻め上ることができる」。 6ヌンの子ヨシュアは祭司たちを召して言った、「あなたがたは契約の箱をかき、七人の祭司たちは雄羊の角のラッパ七本を携えて、主の箱に先立たなければならない」。 7そして民に言った、「あなたがたは進んで行って町を巡りなさい。武装した者は主の箱に先立って進まなければならない」。 8ヨシュアが民に命じたように、七人の祭司たちは、雄羊の角のラッパ七本を携えて、主に先立って進み、ラッパを吹き鳴らした。主の契約の箱はそのあとに従った。 9武装した者はラッパを吹き鳴らす祭司たちに先立って行き、しんがりは箱に従った。ラッパは絶え間なく鳴り響いた。 10しかし、ヨシュアは民に命じて言った、「あなたがたは呼ばわってはならない。あなたがたの声を聞えさせてはならない。また口から言葉を出してはならない。ただ、わたしが呼ばわれと命じる日に、あなたがたは呼ばわらなければならない」。 11こうして主の箱を持って、町を巡らせ、その周囲を一度回らせた。人々は宿営に帰り、夜を宿営で過ごした。
ヨシュア記 6:1-11

先週は北九州折尾バプテスト教会で行われた、間渕牧師の就任・按手式に参加した。13日(日)は、折尾教会で礼拝を守りながら、こちらで皆さんが創立45周年を覚えての礼拝を守って下さっているということ、布山執事がその礼拝を担当して下さっているということを心強く、嬉しく思い浮かべた。後でテープを聞かせて頂いたが、「もしこういう言い方が許されるならば、私たちは今、民に先立ってというか、後に続く人たちに先立ってヨルダンを渡るのだ」と言われたところが、強く心に残った。確かに私たちは神の歴史の流れの中に置かれている。私たちの前には、いつも先立っておられる主イエスと信仰の先達たちがおり、私たちの後には、約束された人たちが続く。そのことをいつも忘れずに、自分がどのようなものとされているかということをしっかり覚えて、いのちの時を歩んでいって欲しいと思う。

今日の箇所は、ヨシュアとイスラエルの民が、いよいよ神の約束の地カナンに入るところ、一番最初の町エリコでのことが記されている。エリコの町の人たちは、既にイスラエルの民の事を噂に聞いて知っていた。しかし、他民族ということで、決して歓迎の気持ちは持たなかった。また自分たちとは異なった、しかし大きな力をもつ神を信じているという怖れの心も重なって、エリコの民は町の門をかたく閉ざしていた。

原文では、「閉ざす」という言葉が二度用いられていて、何者も受け入れない警戒の強さを表わしている。まさにどこからも入る余地がなかった。そうした中で、主はヨシュアに示唆を与えておられる。その一つは、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている」(2)と、完了形で語られている。他には何のしるしもない。閉ざされた現実は、少しも変わっていない。しかし、主がヨシュアに語られたのは、既にことは成っている。受けるべきものは既に用意されているということである。信仰というのは語られる言葉を、ある意味では現実の状況に逆らって、事実としていくことである。

次に示されたのは、六日の間一日に一回町を廻り、七日目は七回廻って、ラッパの合図を聞いたなら大声で呼ばわれ、そうすればエリコの町の石がきはくずれ落ちるということであった。ここには武装した者、契約の箱をかつぐ者、ラッパを吹き鳴らす祭司たちと、それぞれの役割が定められているが、10節には民に対して語られた言葉が記されている。「あなたがたは呼ばわってはならない。・・・・口から声を出してはならない」とある。これは大事なことである。

振り返って、只、沈黙と足音だけを聞いていたエリコの町の人たちの気持ちはどんなだったろうか。またヨシュアから、その時まで、「あなたがたの声を聞えさせてはならない。また口から言葉を出してはならない。」と言われて、イスラエルの民はそれぞれにいろんなことを考えたのではないか。

今の世の中は、あまりにも情報が多すぎると言うか、一方的に聞かされることが多い。総じて言葉が多くなってきた感じがする。本当に何もしゃべらないで、大切な言葉だけを聴いていくというか、そこで自分の言葉を出していくという作業が、今の時代には一番欠けているように思う。それは信仰の世界にも言えることである。

ヨブ記4:16に「わたしは静かな声を聞いた」という言葉がある。私たちにとって、神の前に自分の時を持つ訓練というのは大切である。「あなたがたは呼ばわってはならない。あなたがたの声を聞えさせてはならない。また口から言葉を出してはならない。ただ、わたしが呼ばわれと命じる日に、あなたがたは呼ばわらなければならない」(10)ここに、神との強い関係というものを覚える。「こうして主の箱を持って、町を巡らせ、その周囲を一度回らせた。人々は宿営に帰り、夜を宿営で過ごした。」(11)とある。私たちは、それぞれがどういう生活をしているか、どういう暮らし方をしているか知っていない。しかし、一日の中で一度は主を心に覚えて、聖書を読んだり、祈ったりする時を持っている。そういうつながりがあるように、私たちは思う。

布山執事が宣教の中で、七日目のために後の六日があると言われた。これが私たちの生き様である。今朝読まなかった先のところ20節に、「そこで民は呼ばわり、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。」とある。ところで、民が呼ばわった時、石がきが本当にくずれ落ちたのだろうか。

しかし私たちが立ち止まらないといけないのは、石がきが本当にくずれ落ちたかどうかということではない。むしろ、ヨシュアを通して主が命じられたことに、武装した者も、祭司たちも、民も皆一つになって信頼してそのようにしたということである。

「からだを殺しても、魂を地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」(マタイ10:28)とある。私たちはその方のことを既に知らされている。そして、御子イエス・キリストは「わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と言われた。神への信頼の中で、それぞれのいのちの時を全うさせて頂きたいと願うのである。「民は六日の間ラッパの音を聞いた」ということの中に、私たちの日々は、神への備えの時としてあるということを覚えて頂きたいと思うのである。

1997年7月20日(日)主日礼拝宣教要旨

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