さめていても眠っていても

9神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。 10キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。 11だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。
テサロニケ人への第一の手紙 5:9-11

先週、日曜日の午後、一人の兄弟が訪ねて来られた。自分は「出エジプト」という聖書の箇所の説き明かしを聴きながら、壮大な夢の中に自分がいるような、そして、この会堂の中に自分がいることも、夢の中のことのような気がした、ということを言われた。「夢の中」という表現に、何か強烈に心引かれたわけであるが、考えてみると、人生というのはある意味で、大きな夢の中を歩いているような気もする。

映画やTVのドラマの中で、回想の場面が写し出されることがある。もし私たちが、自分自身と、あるいは自分の死と向かい合う時などに、自分の心をよぎるのはどんな場面だろうか。恐らく両親と過ごした子どもの時のこと、非常に嬉しかった時のこと、また悲しかった時のこと等、いろんな場面が、丁度点滅する電気の光に当たるように、私たちの心に浮かんでくるのではないか。電気の光と言ったが、それが光るのは、電源につながっているからである。私たちのことで言えば、それぞれの人生の歩みの源に目を向けよということである。

先程読んで頂いたテサロニケ人への第一の手紙5章の初めの方に、「主の来臨の時」(4:15)のことについて、「主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。」(2,3)とある。この手紙は、終末と主の来臨を待望する熱狂的な高まりと、死に対する不安に支配されていた当時の状況の中で、書かれたものである。

「眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。しかし、わたしたちは昼の者なのだから・・・・」(7、8)とある。昼というのは、自分以外の、あるいは自分に関わる世界や、物事の関係が明確に意識出来るということで、昼の者、光の中に生きる者としての生き方が、「光」との関連で記されている。

「神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく」(9)とある。人の生き方、人そのものの存在が、神の怒りを引き起こすものであるということが、聖書に記されている。滅びることになっている怒りの器)(ローマ9:22)、「われらはあなたの怒りによって消えうせ、あなたの憤りによって滅び去るのです」(詩90:7〜8)等々。しかし、パウロは、神は私たち を怒りにではなく、「わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである」と言う。神はいつくしみの目をもって、一人ひとりの成長を願われ、イエス・キリストを通してまた、イエス・キリストを信じた者によって、神の御心を人に知らせるようにされたということである。

私たちは、よく夢の中で自分を見ている自分がいる。そういう夢を見ることはないだろうか。この世に生きているということは、ある意味で夢の中にいるようなものでもある。「夢の中」という言い方があるということは、外から触れてくる別の世界があるということである。

10節に「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。」とある。これは、意識のある時もない時も、神の御支配の中にこの私がいるということを、私たちがいつも思い出せるようにということである。もしそれを信じることが出来なければ、私たちは11節に「互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。」とあるような、相手をいたわり、相手を生かすような生き方は出来ないであろう。

ここには、自分がキリスト者であるということで、家族の葬儀を教会でされた方もいるし、亡くなった家族がキリスト者であったということで葬儀を教会でされた方もいるが、結局は皆一つの世界である。生きている時に、死に打ち勝たれた主イエスを知り、信じて生きることのかけがえのなさと共に、「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきは受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。」(同4:6)という言葉を思うからである。

私たちが自分の現実を距離をおいて眺められるのは、人間の知恵だけではなくて、その知恵さえも人に与えた神御自身によって、目を開かれる故である。自分や自分の回りを眺められるということは、救いの一つのかたちである。今、教会学校では出エジプト記を学んでいるが、イスラエルの民は、最初エジプトでの奴隷の状態から引き出されたことを救いとして喜んだ。

しかし、その後の旅の生活の苦しさの中で、彼らは自分たちが救い出されたことの意味は何か、その価値は何なのかと思い始めた。別に救われなくてもよかった、そういう思いすら彼らを支配した。イエスをキリストと信じて歩むというのは、ある意味で一つの生き方である。しかし、それが本当に紅海の水が二つに分かれて、通れるはずもない所を通った。それに匹敵することのようには、私たちは自覚していない。むしろその後の旅のように思うようにならない現実は、依然としてある。

しかし、そこでも神が共にいて下さるということを、まず自覚して欲しいと思うし、主もそれを望んでおられると思う。よく子どもが親に本当のことを言えなくて、友だちとか話しやすい人に話すということを聞くが、では親は自分に相談をかけられなかったから助かったというふうに思うだろうか。自分に出来る事はしてやりとか、たとえ祈るだけであっても、子どもの苦しみをともに担っていきたいと思うのではないか。

信仰の世界においても同じである。神の存在の中に、私たちが叫び、祈り、どうにもならなくなっても、私たちが口に出していくことを神は望んでおられるのである。私たちにはいつもどんな時でも上に開かれた窓がある。開かれているところがあるということを、そして、それは死後の世界においても同様、開かれ場所があるということを覚えたい。私たちはこのいのちの時の中で、主イエスが、「あなたがたは、この世ではなやみがある。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と言われた言葉を思い起こしたい。主イエスの戦いは、私たちが永遠の神を知って、その御思いを受けて生きていくことに向けられていた。私たちの人生は、決して私個人のためだけのものではなく、神に知られている者として、その生涯を歩んでいくことにある。「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである」とパウロが記したこの言葉を、私たち一人ひとりに向けられたメッセージとして、しっかり受けとめていきたいと願う。

1997年6月8日(日)主日礼拝宣教要旨

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