神のしるし

30彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。 31わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。 32そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。 33神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。 34彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。 35イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
ヨハネによる福音書 6:30-35

この後の教会学校では、出エジプト記16章から学ぶことになっている。私たちは「出エジプト」と、何気なしに口にするが、エジプトの奴隷であったイスラエルの民が、エジプトを出るということは、まず不可能なことであった。その不可能なことを神はモーセを用いてされた。神はエジプトの追手から民を護るために、紅海の水を二つに分け、彼らを渡らせられた。

そのような劇的な経験をしながら、彼らはシナイ半島を南に下り、シンの荒野に来たが、そこでモーセとアロンに向ってつぶやき始めた。エジプトを出て、二ケ月目のことである。「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。「肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた」とある、それは、非常に苦しい奴隷生活の中の、わずかな楽しみであったと思うが、そのことを拡大、誇張して思い起こし、不満をあらわにしたということである。

その彼らを、神は、うずらをマナというパンに代る食べものをもって養われた。ただその与え方は、その日その日に必要な分に限られていて、6日目だけは、翌日の安息日の分と併せ、二日分をとることが許された。イスラエルの民は、このようにして荒野での旅を続けたのである。

私たちがここで考えたいのは、どのような恵みも、よかったと思うことも、現実の苦しみの中では、陰を薄くしてしまうものを人は持っているということである。先程読んで頂いたヨハネ6章に、「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。」(44)という主イエスの言葉がある。

「引きよせ」というのは、ある力に抗してということである。主イエスは、旧約時代の奇蹟の食べ物に御自身をたとえられて、「わたしが命のパンである」と言われた。御自分の前にいる人たちに「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満足したからである。」(26)という言い方をされているが、これは、主が五つのパンと二匹の魚で多勢の人たちの空腹を満たされたこと(11−14)の真意を理解せず、ただ、自分たちの必要がかなえられたというところでイエスを見ている人たちに語られたものである。

私たちのそれぞれの現実は、そんなに豊かという実感はないが、地球全体から見れば日本はかなり恵まれた国である。地球上の先進国と言われる国々は、20%の人口で地球資源の80%を独占し、後の80%の人口が、20%の地球資源をこまぎれにしながら、人間としての生存線すれすれの生活を余儀なくされているということを、私たちは知らされている。

今の私たちを取り囲んでいる現実は、多くの人が携帯電話を手にし、会えばインターネットのことが話題になる。そのような中に私たちはいる。しかし、実際は食べ物はあるか、飲む物はあるか。日毎の暮らしをどうしていくかというところに多くの人たちがいるのである。

今の私たちは「パンを食べて満腹し」ているのである。主は「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」と言われる。「食物」とは、「わたしが命のパンである。」(35)という言葉に即して言えば、イエス御自身とも言えるが、これは主イエスから頂く命の言葉、信仰のことである。それが食物にたとえられるのは、永遠の命を養い、保っていく上で、欠くことの出来ないものという意味である。

私たちは生命を保つために食べねばならず、食べるためには働かねばならない。ましてや永遠の命を養う食物のためにである。「働け」と言われたのは、「人の子があなたがた与えるもの」で生きよ、それを大切にして励めということであったが、彼らはそれを取り違えて、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」と問うた。主イエスはその彼らに対して、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」(29)と言われた。

「そのパンをいつもわたしたちに下さい」という彼らに、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」と応えておられる。聖書が常に私たちに語りかけていることは、「イエス・キリストを信じて永遠の命を得よ」ということであり、それが神の私たちに対する愛と求めであるということである。私たちは、無償で与えられる神の恵みの言葉をどれだけ受けているか。神が与えられる天からのパンで、どれだけ活力を受けるものになっているかを思わされる。

私たちは、神の恵みの素晴らしさに心をとめて感謝の思いを新たにするよりも、今の現実の矛盾や苦しさに容易に支配される者である。神の御計画は、イスラエルの民を助け出して、「乳と密の流れる地」に彼らを到達させることであった。そのために、荒野の道を行かせられた訳であるが、イスラエルの民は旅の途中で、その希望や喜びを放棄してしまった。そればかりか、何故自分たちを導き出したのか、とまで言うに至った。私たちの人生には「信仰生活」が重荷や負担に感じられる時期がある。

しかし、荒野に入ったイスラエルの民のようにならないで、そこはどうしても通過せねばならない状況として受け止めていって、神の恵みに対して、心が働かなくなるということがないように、置かれた所で主を求め、礼拝を守る生活を続けていって欲しいと思う。

「あなたが礼拝を守るのでなく、礼拝があなたを護るのである」という言葉をどこかで聴いたが、「乳と密の流れる地」とは、「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と言われた、その父との関係を指していると思われる。イエス・キリストの御言葉こそ、私たちを生涯を通して導いて下さる「神のしるし」なのである。

1997年5月18日(日)主日礼拝宣教要旨

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