先週は、出エジプト記2章(11〜15)から「だれがあなたを立てて」という題でお話をした。これは、いさかいをしていてモーセから注意された悪い方のヘブル人がモーセに逆らって言った言葉である。このヘブル人には、自分を省みる謙遜がなかった。私たちは、例えば、家族とか、あるいは職場の同僚とか組織とか、何らかのかたちで立てられている。しかし、そのこと以前に、「主が家を建てられるのでなければ・・・・」(詩篇127:1)とあるように、基本のものを知る畏れということを、知らないといけないのではないか。それをとばして、自分の経験や能力、力を過信し、そこに立って事柄を判断し、行動していくと、人としてのあやまちにも気がつかなくなっていく。しかし、このヘブル人の言葉がきっかけとなって、モーセはエジプトを離れ、ミデアンの荒野に逃れたのであった。
使徒行伝7章はほぼ全体が、ユダヤ教徒たちから訴えられ、捕らえられたステパノの議会における弁明というより宣教となっている。6章の後半に記されている逮捕の状況や、その直後に行われた処刑の記事(54−60)は、この世における福音宣教の厳しさを思わされる。それは、アブラハムから始まって、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、ソロモンの名をあげながら、イスラエルの歴史を語るかたちになっている。つまり、神はその歴史を貫いて御自身の選ばれた民と常に、共におられるということ、しかし、その民はすべての時期において、決して従順ではなかったということである。それはどういうことか。ここでは17〜43節がモーセのことに関係している。これは、モーセと彼の関わった出来事(出エジプト)が、イスラエルの歴史全体の中で特別なこととして受け止めているということである。
今朝は、CSでの学び(出エジプト記3章)との関連を考えて、30〜35節を選ばせて頂いた。モーセが神の働きを担う者として立てられるところである。これは、彼にとって思いもかけないことであった。「四十年たった時、シナイ山の荒野において、御使が柴の燃える炎の中でモーセに現れた」とある。「四十年たった時」というのは、彼がエジプトからミデアンに逃れて来てからということであるが、正確に訳すと「四十年の時が満ちて」である。彼はその時、義父の羊の群れを追ってシナイ山(神の山ホレブ)の麓にきていた。出エジプト記によると、彼はそこで「柴が燃えているのに、その柴はなくならない」不思議な光景を目にし、それが何故かを確かめようとして近づくと、主が柴の中からモーセの名を呼ばれ、彼が「ここにいます」と応えたことが記されている。
神は一人ひとりをその名で呼ばれるのである。『わたしは、あなたの先祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』。「先祖というのは、遠い存在という感じであまり実感はないが、たどっていけば自分と関りのある人たち、つまり骨肉のことである。彼が恐れおののいたのは、聖にして義なる方、限りなく遠くにおられる神の「近さ」に触れたからである。主はそのモーセに「あなたの足から、くつを脱ぎなさい。あなたの立っているこの場所は、聖なる地である。」と言われた。私はこの言葉に大きな鍵を与えられた思いがする。それは、客観的に物事を考えることの大切さと共に、自分の置かれている場を知ることの大切さを示されるからである。あなたの立っているその場所、あなたが何のこだわりも覚えずに立っているその場所、そこは聖なる地、私の領域だと主は言われる。
私たちはここで、モーセのこととして、くつを脱ぎ、ひれ伏す彼の姿を想像する。しかし、私たちも実はくつを脱ぐべき場所に立っているのである。くつ(はきもの)というのは、生活の中でなくてはならないものである。それを脱ぎなさい、と言われる。この場所は聖なる地だからである、と言われる「この場所」とはどこか。それは、今自分の立っている、自分の存在している場所のことである。
私たちは、普通どこに自分を置いて物事を考えるのだろうか。大抵は、自分自身の中である。それが最も自然なことである。しかし、その自分とは何かという問いは、多くの人が抱える問いではないか。自分に合ったことをする、あるいは、自分のしたいことをすることの中に、自分自身を感じるのが多くの人の歩みであるが、聖書に記されている人物像は、逆らうにしても、従うにしても、創造主である神と無関係に語ることは出来ない。神のものとして、神の関りを受けているものとして、自分を意識していく、そこに引き戻されていく、あるいは引き返していく歩みの中にあるように思う。偉大な、信仰の父と言われたアブラハムも、イサクもヤコブもそうである。しかし、決して信仰一筋、それのみというのではない。この世に生身で生きている者としての、さまざまな誘惑に巻き込まれながら、神に立ち帰っていき、最後は神からの祝福と平安を受けている。
モーセは、「あなたの足からくつを脱ぎなさい。あなたの立っているこの場所は聖なる地である。」と言われたところで、神のために働く者として立てられたのである。繰り返すが、「あなたの立っているこの場所」とは、あなたの存在しているところ、あなたが生きて、生活している場所のことである。そこで主は働かれ、み言葉をくださるのである。この後、皆さんがCSで学ばれる出エジプト記3章と、今ここで開いている使徒行伝7章30〜35節は、モーセの物語であるが、私たち一人ひとりも、私という物語をもった存在である。ただ、その歴史の歩みが、神のよしとされる歩みとなっていくよう、そのことを覚えて、これからの日々を歩んでいきたいと思う。