今日の箇所は、学びとしてはむつかしいところである。この中の一つでも出来れば、出来たという自己満足というか、安心感に結びつくし、出来なければ出来ないということで罪意識のようなものを感じさせられる。また信仰の外に立つ人には、クリスチャンといっても聖書の言っていることをしないではないかという、ゆがんだ思いを与えるところでもある。そこで、まずこれが書かれた背景から考えてみると、ここは主イエスが十字架にかかられる数日前に語られた、いくつかの話の一番最後に当たる。次の26章の初めに、「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えてから弟子たちに言われた。『あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される』。」とある。
さてこの箇所で、「これらの最も小さい者」と形容されているのは、単に幼いもの、小さな子どものことではなく、この世において力を持たない者、容易に無視される存在ということである。当時の状況から言えば、迫害の歴史の中を歩むことになるクリスチャンたちに対して言われたことである。(10:40〜42)今はクリスチャンだからと言って、迫害を受けることは殆どないが、一般的に考えても、この世はいつの時代も、「小さい者」すなわち力のない者にたいしてはあまり関心を寄せない。当然のことながら、「小さい者」に対する配慮がなくなってしまう。しかし、ここでイエスが王の言葉に替えて、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」とまで言われたのは、どのような「ひとり」にも、主が眼差しを注ぎ、心を傾けておられるということである。私たちはこの言葉に、主に在る者の生き方を示されると同時に、私たちも、この世にあってはたとえ「大きい者」であっても、神の前には「小さい者」であるということを覚えさせられる。
「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、・・・・てくれたからである。」(35、36)という言葉に対して、「主よ、いつ、わたしたちは・・・・しましたか。」(37〜39)後に続く41〜46節の中には、「主よ、いつ、わたしたちは・・・・しませんでしたか。」という反対の問いかけがある。それ程に、私たちは無意識のものである。ただ無意識の中に、私たちはどれだけ主イエスの思いを受けているかが問われる。だから、本当にそれをした人は、自分がしたことを忘れるし、またそれは忘れる程のことである。人はなかなか自分本位の思いから抜け出せないものであるが、イエス・キリストは、み言葉は、心を開いて聴き従おうとする者に、自分自身から抜け出ることを可能にして下さる。
このことから、私は、主イエスがルカ18:9〜14で語られた、パリサイ人と取税人の譬を思い出した。パリサイ人は祈りの中で、自分が、律法の定めに従って一週に二度の断食を守り、全収入の十分の一をささげていることを口にしている。ところが、取税人は胸を打ちながらひたすら神にゆるしを乞うている。そして、主は、神に義とされて家に帰ったのは、この取税人の方だと言われた。彼は主の前に、ありのままの自分を認めて悔い、くだかれたのである。しかし、この箇所は、今日の箇所と同じ様に、教会に来ている人が読むのと、そうでない一般の人が、読むのとでは受け止め方に違いが出てくる。それは、信仰生活の背景がないというか、分からないという点である。
十分の一献金を守るとか、時間や体をささげていくという、律法にそった生き方というのは、私はしました、出来ましたと、神の前に胸を張っていいことである。ただ、それが、人との比較において、人を見下げたり、人をさばいたりする心が出るようになるからいけないのであって、律法を守るということは、それを守って行く過程において、痛みや苦しみといった闘いを伴うものであることを決して忘れてはならない。丁度、蝉が自然の摂理として、自分の殻から時間をかけて抜け出ていくように、そうした過程を経て、私たちはこの世の自分から、神のみ心の世界に近づいていけるのである。「十分の一」は、ある意味で、自分を中心とした本能的な殻との決別を意味する。時間にしろ物にしろ、それを献げていくということは、信仰において自分の気持に対する仕切りがないと出来ないことである。「私は罪人です。何もしていません」という方が、私たちにとっては、非常に身近かで自然である。
主イエスは、「最も小さい者のひとりに」という言い方で、他の人のことを言っておられるが、本当は自分も小さい者のひとりなのである。神の前には、人として同じなのだということを、私たちは忘れがちである。ここで語られている「食べさせ」「飲ませ」「宿を貸し」・・・・という言葉は、自分を相手の上に置いてのことではなく、相手の気持と自分が並ぶことであるから、人であるということにおいて、同じところに立つということである。もう一つ教えられたことで、「小さい者」とは、自分があまり意に介さない者のことである。それは、しばしば「家族」であったりもする。私たちは、自分の最も身近かな者に対して、容易に「大きな者」として振る舞う。家族として、小さい者の位置にいる人もあるかも知れないが、私たちはいつも神の前に、「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」と言われた主イエスの言葉を心に留めていきたく思う。