教会では、この2月をスチュアードシップ月間として、特に、スチュアードシップについて、集中的に学ぶことになっている。と言っても、何か特別なことを学ぶ訳ではない。スチュアードシップとは、まさに、神との関係に置かれた者の、生涯をかけての証しであり、学びであり、生き方そのものをさしていると言ってよい。しかしこれは、ある人には関係があって、ある人には関係がないということではない。何故なら、イエス・キリストは、全ての人のために、この世に来られたからである。
すぐ前の24章(37−39a)に、ノアの時代のことが引用されて、「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。」とある。このわずか数行の中に、神を知らなくても、人は充分満足して生きることが出来る。生活は成り立っていくということを思う。そうした流れの中で、神を知った者の働き、生活があるということである。
今日の聖書の箇所は、「また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。」から始まっている。これは、あくまでたとえであるが、私たちはどうしても、「それぞれの能力に応じて」という言葉や、五タラント、二タラント、一タラントという数字に囚われてしまう。
少し余談になるが、タレントという言葉がある。個人の才能、能力を表す言葉として用いられるが、タレント(原語のギリシャ語ではタラントン)とは、もともと(貴金属を量る)「秤」のことで、それが「量られたもの」の重さの単位となり、通貨にも用いられるようになった。一タラントは6,000デナリに相当する。当時、農園で働く自由労働者の賃金が一デナリというから、一タラントはその6,000日分。年数にして16年分の日当に当たる。一タラントといっても相当の額である。
ここで主人は、預けた五タラントの他に、更に五タラントを儲けた僕に、「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(直訳は「あなたの主人の喜びに入れ」)と言っている。この「わずかなもの」という言葉に、立ち止まるものを覚える。目もくらむような大金に対して、このような言い方をするということは、主人が余程の物持ちだったということと、もう一つは、主人が僕に言った「忠実」と言う言葉に目を止めたい。
最初の僕は主人から五タラントを預かった時、おそらく、これを元手に、せめて同額の五タラントを儲けてみようと思ったわけではないと思う。ただ彼は、主人から五タラントを預けられたということを大切に考えて、また少しでもふやせる機会を見つけた時に、それを実行していったことが、思いもかけず、結果として、五タラントをふやしていたということである。
同様に、二タラントを預かった僕も、五タラントを預けられた僕のことを羨ましがらずに、ただ、主人の自分に対する信頼に応えて、結果として、もう二タラントをふやしたということである。主人はこの僕に対しても、最初の僕に語ったと同じ言葉で、その喜びを表している。ところで、もう一人の一タラントを預かった僕のことが、最後に詳しく記されている。彼は主人から預かった財産を使い込んだわけでも、減らしたわけでもない。
しかし、主人から「悪い怠惰な僕よ」と、言われたということは、おそらく彼自身の中に、一タラントを預けられたということに対する当惑というか、負担感があったということではないか。負担に思う気持ちに支配されていて、心が働かなかったということである。何故、働かなかったかというと、やはり財産を預けるというかたちで示された主人の愛と信頼に対して、応える者(感謝とか喜び)が彼の中になかったということである。だから、預けられたものを活用しなかったというより、彼自身の言葉というか気持ちによって裁かれたということである。
Iコリント2章9節に「しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見えず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。」と記されている。まさにそれが、イエス・キリストの降誕であり、受難であり、十字架の死における私たちのための神へのとりなしということである。
今日の箇所で、「ある人が旅に出るとき・・・・」「だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて」という言葉がある。その期間については、はっきり示されていない。それは誰にも分からないが、ある意味で、ひとりひとりの人生の時のことのように思う。
先月の中頃だったが、朝日新聞に「この二年」という見出しで、「阪神大震災の検証」記事が数回に亙って掲載された。「今後数百年以内に、マグニチュード8クラスの規模の地震が発生する可能性が高い」(これは長野県から山梨県にかけて走る糸魚川ー静岡構造線活断層を、政府が、通産省工業技術院地質調査所の発掘調査などをもとに、初めて公表した地震の長期予測であるが、昨秋の公表会見では、こんなやり取りがあったという。)「数百年以内というのは、ここ数年は起きないということか」「いや、あしたも含めて数百年以内だ」(1/18、(4))ある意味で、私たちはこのような時の中を生きている。人はすべて一様に同じ時に死ぬわけではない。私たちはそれぞれの生きている期間、人生の時は誰にも分からない。ただ、はっきり分かっていることは、私たちはみな例外なく、死ぬ者であるということである。
聖書に、これはパウロの言葉であるが、「・・・・肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」(Uコリント5:9−10)とある。
他の教会のある婦人の方が証しの中で、自分はクリスチャンホームに育ちはしたが、ずっと、家庭からも教会からも離れていた。非常に自由であったが、自分が欲しいと思っていたものを手に入れた時、これが人生のすべてではないということに気づいたという事を話されたことがある。やはり、私たちの心は、いろんなものに奪われて、しかもそれで満足しがちなものであるということを、しっかり心に留めたい。神を知らされた者として、イエス・キリストのゆるぎのない土台を大切に、自分の日々を積み重ねていって欲しい。神を喜んでいること、神から平安を頂いていることを周りの人に伝えることが出来る者として、いのちの時を生きていきたい。