新しい年の始めに

1そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。 2すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、 3「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 4この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。 5また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。 6しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。 7この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。 8もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。 9もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。
マタイによる福音書 18:1-9

新年もはや5日目を迎えた。年の初めということから言えば、まだ序の口と言ったところであるが、周りの環境や日常生活が変わったわけではないから、年が改まったという感覚は日毎に薄れて、今までと同じような状態になっていくのが常である。しかし、私たちには、いつも新しく、心に留めていなければならないことがある。それは、私たちが主を知る者とされているということである。

そういう意味で、今日の箇所で私が一番重心を置いてお話したいと思うところは、7節の「罪の誘惑は必ず来る」と言われた主の言葉である。振り返って考えてみると、昨年もそれぞれに、いろいろあったと思う。私たちは、お互いにそのことを知らないし、知らないまま過ぎていくが、私たち一人一人を試みるようなことは、これからも絶えずあると思う。

ある方から頂いた「暗から光え」という、キリスト者実業家の証しを集めた本(日本CBMC刊)の中に、囲碁・将棋・マージャンの用具を扱っていた会社の社長が、ある時、賭け事で家庭が壊れるという話を聞いたことから、当時、売り上げの8割を占めていたマージャンパイを外した。それは、会社にとって必要な、魅力商品だったし、止めた後も、経営状態が厳しい時は、パイを是非扱ってほしいという要請が営業会議でガンガン出たし、得意先からも言われたが、これだけは分かってほしい、自分の信念を通したいということで、今日に至っているということだった。

そのように、まさに生活や会社の経営にそのまま影響してくるというような誘惑との戦いもある。個人的な、日常のことで言えば、私たちはさまざまな感情に支配されて、自分では気がついていて、あるいはつかないで、人を傷つける罪を生み出しているということもある。新しい年の始めに当たって、「罪の誘惑は必ず来る」(誰にも、それは避けられない)との、主の言葉を是非心に留めたく思う。

人は誰も自分に対して、大丈夫とは決して言えない。うっかりして足をすくわれるというようなことがいくらもある。友だちからの誘惑もあるし、異性の誘惑もある。誘惑というのは、概して、自分にとって心地よいもの、魅力のあるものとして立ち現れる。まず、最初から戦う力を奪われるという意味で、これに抗することは非常にむつかしい。

主イエスはここで、「もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら」(8)「もしあなたの片目が罪を犯させるなら」(9)と言っておられる。あたかも体の器官が罪を犯させるという、こうした表現は聖書、特に旧約聖書にしばしば見られる。例えば、箴言6章に、「主の憎まれるもの」「その心に、忌みきらわれるもの」として、「高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、悪しき計りごとをめぐらす心、すみやかに悪に走る足、・・・」と言う言葉がある。

今日のところでは、片手・片足・片目とあるが、器官の片方だけで罪を犯すということは考えられないから、これは、そのうちの一つでもという意味であろう。もし、神との関係を妨げるもの、つまずきになるようなものが一つでもあるなら、「それを切って捨てなさい」「抜き出して捨てなさい」ということである。大変激しい、厳しい言葉である。これは、そうすることで問題が解消するということではない。体の器官が罪を犯すといっても、それ自体に意志があって勝手に動くわけではない。生理学的に言えば、体の諸器官は、大脳からの指令を受けて動いているだけのことである。

エレミヤ書に「主であるわたしは心を探り、思いを試みる」(17:10)という言葉があるが、問われているのは、手や足や目のことではなく、人としての心の在り様、状態がどうかということである。8節の衝撃的な言葉も、「命に入る」ことがどんなに大切なことかを形容したものである。併せて、罪や誘惑に勝つためには、それ程の覚悟、力がいるということである。しかも、「サタンは天使のかたちをとってくる」という言葉さえある。(「サタンも光の天使に擬装するのだから」Uコリント11:14)。私たちにとって心地よい誘惑に勝つためには、十字架におけるイエス・キリストの贖いの愛を思うことである。これはサタンに対する神の戦いである。神が御子イエス・キリストを罪の贖いとされる程に、私たち一人一人を愛し、求めておられるということである。

「罪の誘惑は必ず来る」。私たちにとって大事なことは、罪の誘惑に勝利をしていくことを、私たち自身が、自分の罪によって、人を損なわないということである。創世記4:7に、「罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」という言葉がある。また、詩篇119:133に「あなたの約束にしたがって、わが歩みを確かにし、すべての不義に支配されないようにしてください。」という言葉がある。私たちはこの一年、罪の支配に自らを委ねることなく、神を喜び、主を賛美するものとして創られたものであることを、心にしっかりと留めていきたい。

何が罪であるか、罪でないかということは、私たちには分からないこともあるが、自分はどう思い、どう考えるということが中心になると、やはり、正しいことからずれていくように思う。「わたしは常に主をわたしの前に置く」(詩16:8)という言葉があるが、いつも、自分の前に大いなる方の存在を覚える。その方のご支配の下に自分は在るのだということを、しっかりと思って生きることが大切である。そのことが、自分の内側の罪とか、外側から自分を襲ってくる罪や誘惑から、自分を護ることになるのである。

1997年1月5日(日)新年礼拝宣教要旨

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